痛み、苦しみのない世界で人は本当に幸せになれるのか
今回はお気に入りの小説である伊藤計劃さんの「ハーモニー」の感想を書いていきます。
「ハーモニー」では医療技術が発達して、人間が病気、ストレスで苦しむことがなくなり、優しさ、倫理で支配された福祉厚生社会が描かれています。ユートピアに見える世界ですが、刺激が無くつまらない世界でもあります。主人公の「霧慧(キリエ)トァン」は優しさにみち溢れた世界で息苦しさを感じていました・・・。人間とは何か、幸せとは何か考えさせられる作品です。
本編のラストシーンを中心に感想を書いていきます。重大なネタバレをしているので、ご注意ください。
私の意思
人間を人間たらしめるものは何か?「意識」を持って考えた「意思」を表現できるのが人間だと思います。「意識」がなくなった人間は、人間なのでしょうか。考えることなく、生きるためだけに動く人間は、人間と呼べるのでしょうか。
本作で描かれる「ハーモニー・プログラム」は人間の「意識」を消滅させることを目的としています。意識のなくなった人間は完全に社会と適合をして、個ではなく社会として生きていくことになります。人間と社会が一致すれば、争いは完全になくなって、社会になじめずに自ら命を絶つものもいなくなります。
でも、「意識」がなくなった人間は生きているといえるのでしょうか。その答えは、トァンの最後の行動に隠れていると思います。
トァンにとってのミァハ
作中のラストで、トァンはハーモニー・プログラムを実行しようとしている「御冷(ミヒエ)ミァハ」を銃で撃ちます。ミァハは、トァンのかつての友人であり、憧れであり、トァンの行動の規範となった人物でもありました。なぜトァンはミァハを撃ったのでしょうか。それはトァンが「私が私であるために」必要な行動だったからです。
ミァハの存在はトァンにとって絶対的なものでした。世界を憎み、世界に反逆しようとしていたミァハの思想に心酔していました。彼女がいなくなった後も、彼女の影を追い続けていました。
ミァハの思想をなぞるばかりで、そこにトァン自身の「意思」がなかったように見えます。そしてミァハにとっての特別な存在であることが、トァンにとってのアイデンティティーでした。
しかし、友人の「零下堂(レイカドウ)キアン」と父である「霧慧(キリエ)ヌァザ」が間接的とはいえ、ミァハのせいで亡くなったことで復讐心が生まれます。初めてミァハを肯定するのではなく否定する気持ちが生まれました。借り物の「意思」ではなくて、トァン自身の「意思」が目覚めたのです。
ミァハにとってのトァン
社会に適合できずに、自ら命を絶つ者達を救いたいという理由でハーモニー・プログラムを実行するとミァハは言いますが、それは違うと思います。ミァハ個人が社会から仲間外れにされたくないという思いから、プログラムの実行を望んでいたのではないでしょうか。
ミァハは、誰も自分を理解しないなら、みんなを自分と同じにしてしまえば良いと考えていたように思います。あくまでミァハの個人的欲求で、そこにトァンのことや他者の存在は考えられていません。自分さえ良ければそれでいいという考えです。
同時にミァハにとってトァンは、自分の考えに肯定するだけの都合の良い存在でした。自分と同じ考えをもって、同じように行動する分身が欲しかったのです。トァンをトァン個人としてではなくて、ミァハの被り物をした存在として見ていました。ミァハにとって、トァンはトァンでなくても良かったのです。
ミァハはトァンがハーモニー・プログラムに賛成するのは当然だと思っていました。ですので、自分がトァンに否定されて撃たれるとは夢にも思っていませんでした。
2つの銃弾
トァンがミァハに放った2つの銃弾は、トァンの「意思」そのものでした。道徳的な優しい世界が生み出したものでもなく、ミァハからの借り物でもない、トァン自身の「意思」で放たれました。
2つの弾丸はキアンとヌァザが亡くなったことへの恨みと悲しみ、ミァハの欺瞞(キアンが亡くなる時に自己を正当化している)への怒りと様々な感情が込められて複雑なものです。復讐は肯定はできませんが、苦しみ、悩み抜いた決断はもっとも人間らしいものだと思えます。
「ハーモニー」の世界のように、綺麗で優しいものだけを見ていたいという考えは世の中で増えてきていると思います。テレビ番組の表現、広告のキャッチコピー、政治家の発言などは誠実さが求められています。誠実さから少しでも逸脱すれば、世の中から一斉に責められてしまいます。
でも、人間の感情は綺麗で優しく、誠実なものだけではありません。悲しみ、怒り、嫉妬など負の感情は必ずつきまといます。負の感情のせいで争いはなくならず、人は互いを傷つけ合い続けます。
互いを傷つけ合わないためにハーモニー・プログラムが必要と感じるかもしれませんが、私は負の感情を伴ってこそ人間だと思います。負の感情によって誰かを傷つけて、自分が傷つけられるかもしれません。しかし、人間は考えて反省ができる生き物です。傷つけられた分だけ人はより優しくなれるはずです。
痛み、苦しみがあるからこその優しさです。優しさだけでは、優しさは優しさと認識されないでしょう。トァンがミァハを否定して解き放った負の感情も、人間に必要なものだったのです。
トァンは「私が私であるために」「人間が人間であるために」2つの銃弾を解き放ちました。自分の意思を貫いたトァンの行動は、人間であるための証明だったと思います。
最後に
「ハーモニー」の世界は一見すると夢物語のように感じますが、現実世界と地続きです。争い、病気がなくなり、痛み、苦しみを伴わない世界は誰しもが望んでいる世界だと思います。
でも、本当に世界から、痛みや苦しみがなくなったら、人間はどうなるのでしょうか。刺激のない無味無臭な世界に幸せを感じることができるのでしょうか。人間とは、幸せとは何かを考えさせられる作品でした。
また本作はアニメ映画化されています。映画では、トァンとミァハの関係が耽美的に描かれていたり、結末が異なったりしています。映画の結末は愛情に焦点を置いているように感じました。小説とは違う視点で、「ハーモニー」の世界を楽しめます。